日本戦艦 三笠
「日本戦艦 三笠 (プラモデル) (ハセガワ 1/700 ウォーターラインシリーズ No.151 )」です
●日露戦争時における日本海軍の戦艦「三笠」を1/700スケールで再現したプラスチックモデル組立キット
●連合艦隊旗艦として、艦隊の先頭に位置し、ロシア艦隊との壮絶な砲撃戦を展開した戦艦「三笠」を再現、位置が低い艦橋と、背の高いマストと煙突を有した、重厚なフォルムを再現した内容となっています
●「黄海海戦」時の状態と、「日本海海戦」時の状態とを選択して作製することができます
【 「日本戦艦 三笠」のキット内容について 】
●日本海軍の戦艦「三笠」を再現したプラスチックモデル組立てキットです
●ハセガワ社のウォーターラインシリーズのフォーマットを継承しながらも、細密さを求める近年の艦船模型へのユーザーの声に応えるように、戦艦としての細かな構造をスケールに沿って再現、精密感と1/700スケールならではのディテールの凝縮感を楽しむことができます
●細かな構造を再現するために、従来のウォーターラインシリーズのキットよりもパーツ数は多めになっていますが、モールドを主体とした細部再現と、作りやすさにも配慮したパーツ構成で、コレクション性を重視した同シリーズの美点を損なうことなく、戦艦「三笠」をディテール感豊かに再現しています
●パーツ上に施された数々のモールドは、これまで培ってきた艦船模型の技術を活かし、深過ぎず浅過ぎず、スケールに沿った強弱を付けた彫刻で、戦艦らしい重厚感をも伝える絶妙な仕上がりとなっています
●また、戦艦「三笠」を1/350スケールで初キット化したハセガワ社らしく、実艦への深いこだわりを基に、最新の考証を読み込んで戦艦「三笠」を再構築、上甲板やボートデッキのキャンパー構造など、これまでのキットでは再現していない部分にまで踏み込んだ内容となっています
●「黄海海戦」時の状態と、「日本海海戦」時の状態とを選択して作製することができるコンバーチブルキットです
・ 「黄海海戦」時と「日本海海戦」時の違いは、補助砲の配置と装備数が異なります
●喫水線までの部分を再現した洋上モデルです
●「三笠」は、「船体」「上甲板」「艦橋などの上部構造物」「主砲塔などの艤装類」を、それぞれブロック化して分割した構成となっています
●各ブロックをそれぞれ個別に組み立てて、上甲板、構造物、艤装類を船体ブロックへと取り付けて完成させます
●船体は左右に分割したパーツで構成、ボートデッキ下部の舷側部を一体成型化しています
・ 左右の船体パーツか歪まないように、接着面積の広い「桁」のパーツを挟み込んで組立てます
・ 船体部には、舷側の「舷窓」、艦尾の「扉」、「梯子」「アンカーレセス」「フェアリーダー」「防雷網」「塵捨て管」などを強弱を付けたモールドで再現
・ 副砲装備部分は、砲塔の大きさに合わせた凹んだ状態、ボートデッキ下部の舷側部の副砲用の開口部はヌケた状態で開口しています
・ 洋上モデルに欠かせない船体下を塞ぐ平らな船底パーツが付属、オモリとなるバラストも付属しています
●上甲板は、一体成型のパーツで再現
・ 甲板上には、主砲塔台座、木甲板表現などの基本構造の他、「アンカーチェーン導板」「アンカーチェーン」「「ケーブルホルダー」「キャプスタン」「昇降口」「天窓」「ボラード」などのディテールを強弱を付けたモールドで再現
「三笠」の艦上の構造物は下記のようなパーツで構成しています
●艦橋
・ 艦橋部は、艦橋と艦橋甲板で構成しています
・ 「司令塔」は艦橋甲板に一体成型化しています
・ 艦橋は、各パネルを箱組み状に貼り合わせて作製します
・ 「艦橋窓枠」は、「窓ガラス」の部分を一段凹んだ状態として、立体感を演出しています
・ 艦橋甲板は一体成型のパーツで再現、木甲板表現や探照灯用の軌条を繊細なモールドで再現しています
・ 艦橋上部の「指揮所」は、「羅針盤」「測距儀」を別パーツ化しています
・ 艦橋に装備する、「4.7cm単装砲」(×2)(「日本海海戦」時)、「探照灯」(×2)などを別パーツ化して再現
●煙突
・ 本体部分は左右分に分割したパーツで再現、上部のファンネルキャップは別パーツとなっています
・ 各副管はモールドで再現
●後部艦橋
・ 後部艦橋は、艦橋と艦橋甲板で構成しています
・ 艦橋は、各パネルを箱組み状に貼り合わせて作製します
・ 「艦橋窓枠」は、「窓ガラス」の部分を一段凹んだ状態として、立体感を演出しています
・ 艦橋甲板は一体成型のパーツで再現、木甲板表現や探照灯用の軌条を繊細なモールドで再現しています
・ 艦橋上部の「指揮所」は、「羅針盤」「測距儀」を別パーツ化しています
・ 後部艦橋に装備する、「4.7cm単装砲」(×2)(「日本海海戦」時)、「探照灯」(×2)、「羅針盤」(×1)などを別パーツ化して再現
●ボートデッキ
・ ボートデッキは、甲板部分を一体成型のパーツで再現、これに舷側部を除く、各壁面パーツを取り付けてデッキ全体を完成させます
・ 壁面パーツには、「窓」「扉」のディテールの他に、「鋼板継ぎ目」も微細なモールドで再現
・ デッキ中央に位置する「煙突基部」のパーツには各「ボート架台」を一体成型化しています
・ 「黄海海戦」時において、ボートデッキに装備する、「7.6cm単装砲」(×4)を別パーツ化して再現
・ 「日本海海戦」時において、ボートデッキに装備する、「4.7cm単装砲」(×4)を別パーツ化して再現
●マスト
・ 各マストは単檣型で、「見張所」を含めた一体成型のパーツで再現、「ヤード」は個別にパーツ化しています
・ 中央部のスポンソン(「黄海海戦」時)は左右に分割したパーツで再現
・ 「黄海海戦」時においてマストに装備する「4.7cm単装砲」(×各4)を別パーツ化
●主砲塔 「40口径 30.5cm連装砲」 ×2
・ 主砲塔は一体成型のパーツで再現、砲身は連装状に一体成型となったパーツで再現していますす
●副砲 「40口径 15.2cm単装砲」 ×14
・ 副砲は、シールドを含めた一体成型のパーツで再現
●補助砲 「40口径 7.6cm単装砲」 ×20(「黄海海戦」時)、 「40口径 7.6cm単装砲」 ×12(「日本海海戦」時)
・ 補助砲は、一体成型のパーツで再現、シールドが付いたタイプとシールドの無いタイプとをセット、選択して使用します
●補助砲 「4.7cm単装砲」 ×8(「黄海海戦」時)、「4.7cm単装砲」 ×12(「日本海海戦」時)
・ 補助砲は、一体成型のパーツで再現しています
●内火艇、カッター及びボートダビッド
・ 17m内火艇 ×2
・ 11m内火艇 ×1
・ 11mカッター×1
・ 9mカッター ×11
・ 8mカッター×1
●その他の艤装を再現したパーツとして
・ 艦首、艦尾旗竿
・ 錨、副錨
・ 菊花紋章
・ 通気筒
・ 艦尾のスターンウォーク
などをセットしています
●旗竿に掲げる軍艦旗、マストに掲げる将官旗、Z旗などの信号旗、煙突の白帯、艦名表示などを再現したデカールが付属しています
●パッケージイラスト : 加藤単駆郎
【 「日本戦艦 三笠」のパッケージ内容 】
・ 戦艦 三笠 ×1 (「黄海海戦」時と「日本海海戦」時とのコンバーチブル)
・ 金属製バラスト ×1
・ バラスト固定用両面テープ 一式
・ デカールシート ×1
・ 組立て説明書 ×1
●2016年 完全新金型
【 「戦艦 三笠」について 】
●「日清戦争」の勝利により、日本は朝鮮での一定の権益を獲得しましたが、ロシア、フランス、ドイツによる、いわゆる「3国干渉」によって、講和条約で戦時賠償として獲得した遼東半島は放棄せざるを得なくなりました
●南下政策によって領土と権益の拡大を図るロシアは、「清」(当時の中国王朝)との条約を締結し、遼東半島の使用権を確保、朝鮮内での様々な権益を拡大して行きました
●少なからず、将兵の命や血を流しながらも大きな権益を失った日本から、ロシアが労せずにその権益を奪ったと解釈した世論及び日本国民の反ロシア感情は頂点に達し、日本海軍、陸軍内でもロシアとの開戦はやむなしという機運となります
●しかし、当時有数の海軍と膨大な兵力を持つロシアとの戦争は戦力的に無理があり、我が国は急激なピッチで軍備の整備を行うことになります
●日本海軍は、6隻の戦艦と6隻の装甲巡洋艦を装備する「66艦隊計画」を進め、その中核となったのが4隻の戦艦「敷島型」でした
●戦艦「三笠」は、その戦艦「敷島型」の4番艦にあたり、1902年に竣工、主砲として「30.5cm砲」を4門、副砲として「15.2cm砲」を14門装備しています
●戦艦「敷島型」の装甲には「ハーヴェイ鋼」を使用しているのに対して、この「三笠」には高い防御力を持つ「クルップ鋼」を採用、このため「三笠」は他の3艦よりも強力で、世界的に見ても当時最強レベルの戦艦でした
・ 当時の日本は、造船技術がまだ未熟であり、主力艦艇は外国から輸入する方法が採られ、「三笠」はイギリスの「ヴィッカース」社で建造されています
●竣工した「三笠」は、この能力を買われて1903年に「連合艦隊」の旗艦へと就役します
●1904年に「日露戦争」が勃発、この戦争の主戦場はあくまでも陸上でしたが、その戦場への補給路となるのが日本海であり、兵力に劣る日本陸軍の兵を一兵たりとも失わず、前線への弾薬や食料などの補給を断たれないように、日本海軍は総力を挙げて制海権の確保に尽力を尽くします
●このことは、ロシア軍も熟知しており、ウラジオストックから出撃したロシア艦艇が通商破壊戦を展開、日本軍側は少なくない兵力及び物資を喪失しています
●また当時のロシア海軍は、世界有数の海軍力を保有しており、その戦力は日本海軍の約2倍もの艦艇数を有していました
●ただし、この戦力は、広大なロシア領内に分散配備され、極東地域には遼東半島の旅順港の「旅順艦隊」、ウラジオストックに配備された「分遣隊」、西ヨーロッパではバルト海に配備された「バルチック艦隊」と、黒海に配備された「黒海艦隊」に分割されていました
●これらのロシア艦隊が集結して決戦となると、戦力的に結果が見えていることから、日本海軍はまず「旅順艦隊」との決戦を行なう道を選択します
●しかし、ロシア海軍側は旅順港内に引き込もって「旅順艦隊」を温存(旅順港の入り口には強固な砲台が設置されていた)、ヨーロッパの艦隊をアジアへと回航させます
●ところが、陸上戦闘の結果、旅順港は日本軍側に包囲され、地上からの砲撃が「旅順艦隊」へと届くようになりました
●旅順港内が安全な場所たりえなくなったため「旅順艦隊」は1904年8月に出航、一路ウラジオストックを目指します
●「旅順艦隊」の出撃を待ち構えていた「連合艦隊」は決戦を挑みますが、ロシア側は戦いを避けるように行動、彼我の距離が詰まらないまま遠距離での砲撃戦となりました(黄海海戦)
●この時、「旅順艦隊」の旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に砲弾2発が着弾、装舵手が戦死して、舵が回頭状態のままとなってしまい、「旅順艦隊」は大きく混乱してしまいます
●この結果、多くの艦が被弾、極少数がウラジオストックに辿り着けただけで、残存艦は旅順へと逃げ戻ることになりました
●「黄海海戦」によって、「旅順艦隊」の脅威は半減しましたが、「連合艦隊」では、日本海に向かって来る「バルチック艦隊」(バルチック艦隊と黒海艦隊とが途中で合流)に向けての訓練と、「黄海海戦」の戦訓から入念な作戦の見直しが行なわれました
●この結果、考案されたのが「丁字戦法」で、敵艦隊の前に横一直線状に艦を展開、これにより敵艦隊の機先を制し、「黄海海戦」のような取り逃がしを防ぐという陣形でした
●ただし、この戦法は実際の運用が難しく、絶妙なタイミングによって艦隊を動かす必要が有りました
・ 「黄海海戦」でもこの戦法が試みられましたが、敵艦隊との距離が遠かったために、効果的とはならなかったようです
●「バルチック艦隊」は、当時締結されていた日英同盟の制約を受け、スエズ運河を使うことができず、希望峰回りでアジアへと到達、1905年5月に対馬近海に接近します
●「三笠」は「連合艦隊」の旗艦として、艦隊の先頭に位置し、「バルチック艦隊」に向けて突き進み、「日本海海戦」の幕が切って落とされます
●「バルチック艦隊」との距離が8000mとなったところで、「三笠」に座乗する連合艦隊司令長官「東郷平八郎」の命により、艦隊は敵前にて回頭を開始します(「東郷ターン」と呼ばれる)
●この回頭点(単縦陣での回頭は、先頭艦が曲がる箇所を回頭点とし、この地点で各艦が回頭することで、単縦陣の隊形が維持される)を狙ってバルチック艦隊は砲撃を開始、特に「三笠」には砲撃が集中し(32発を被弾)、多大な損害が発生しますが、防御力の高い三笠は、戦闘能力を失うことなく旗艦としての任務を果たします
●東郷ターンを行ったことで「丁字」の形を形成、「連合艦隊」の砲撃により、「バルチック艦隊」の各艦は被弾が続出し、徐々に戦闘力を喪失して行きます
●「バルチック艦隊」は最初の戦闘により散り散りとなり、艦隊としての統制力を失ったまま2日間に渡る海戦でほぼ壊滅、大型艦の全てを失い、少数の小型艦のみがウラジオストックに逃れたのみでした
●この「日本海海戦」の結果は、日本側の圧勝(日本側の沈没艦は、水雷艇3隻のみ)という世界の海戦史上、類を見ない結果となり、ロシア海軍が戦意を喪失するほどのダメージを与えたのでした
●「三笠」は、日露戦争終結直後の1905年9月に弾薬庫が爆発する事故が発生、多数の死傷者を出します
●修理が終わった同艦は、1908年に第1艦隊旗艦として復帰しますが、この頃には革新的な戦艦「ドレッドノート」がイギリスで竣工しており、以後この艦を基準とした「ド級艦」や「超ド級艦」が次々と登場、「三笠」は徐々に補助的な存在となって行きました
●1923年には、一旦廃艦が決定されましたが、かの歴史的な役割を鑑みて記念艦として横須賀港での保存を決定します
●しかし、太平洋戦争後の混乱時にはダンスホールへと改装され、艤装の一部が盗難に合うなどの受難を受けましたが、現在では復元、日本海軍艦艇の唯一の生き残りとして往事の姿を残しているのです